あらゆる真実は一度発見されれば理解するのは容易だ。 肝心なのは真実を発見することだ。
どうして君は他人の報告を信じるばかりで、自分の眼で観察したり見たりしなかったのか。
懐疑は発明の父である。
学者はそれゆえという言葉をしきりに使うが、なにゆえ、それゆえなのか俗人には分からない。 なにか、偉そうな言葉で誤魔化されているようだ。
感覚が役に立たないとき理性が役に立ち始めるのだ。
聖書は我々にいかに天へ行くかを教える。 いかに諸天体が動くかを教えるのではない。
哲学はわれわれの目の前にひろげられている。 この巨大な書物、つまり宇宙に書かれている。
自然はわれわれの知性にとっては限りなく驚嘆すべきことを最高度の容易さと単純さとで行なっている。
人にものを教えることはできない。自ら気づく手助けができるだけだ。
書物よりも見たり聞いたりすること地位よりも経験が第一の教育者だ。
見えないと始まらない。見ようとしないと始まらない。
それじゃバイバイ また遊ぼうねお兄ちゃん
気が変わったの、セイバーはいらないけどあなたのアーチャーには興味が湧いたわ
見直したわ凛、戻りなさいバーサーカー
じゃあこれでおしまい、はしたない女鹿には串刺しがお似合いよ
正面から撃ち合うの?勇敢だけど愚かね凛
素早い獲物ね 特別にもう二羽足してあげる
ここで死ぬ人間に何を語れと言うのかしら
こわいこわい、口上もなしで襲ってくるなんて まるでケダモノね
横やりは無視しなさい。 どうせアーチャーと凛の攻撃じゃあなたの宝具を超えられないんだから。
とどめね、潰しなさいバーサーカー
じゃあ殺すね、やっちゃえバーサーカー
はじめまして凛、私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン
こんばんは、お兄ちゃん
切嗣の代わりにたっぷりと苦しんでもらうんだから
問題ないわ、バーサーカーの宝具に対応策なんてないもの
うさぎはギリギリまで追い詰めて怯えきった所を仕留めるものでしょう
大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。 大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。 それ小を積めば大となる。
善悪と言っても、天が決めたものではなく結局、人間にとって便利かどうかだけの話である。
すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。 売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。 貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。
貧富の違いは、分度を守るか失うかによる
貧となり富となる。 偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。 人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。 節約なる処と勉強する所に集まるなり。
道徳を忘れた経済は罪悪である。経済を忘れた道徳は寝言である。
人道は一日怠れば、たちまちすたれる
誠実にして、はじめて禍を福に変えることができる。 術策は役に立たない。
キュウリを植えればキュウリと別のものが収穫できると思うな。 人は自分の植えたものを収穫するのである。
人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。 相手の長じているところを友として劣っているところは友としてはいけない。 人の短所を捨て、長所を友とするのだ。
可愛くば 5つ数えて 3つ褒め、2つ叱って、良き人となせ
世の中は、知恵があっても学があっても、至誠と実行がなければ、事は成らない
貧者は昨日のために今日つとめ、昨年のために今年つとめる。 それゆえ終身苦しんでも、そのかいがない。 富者は明日のために今日つとめ、来年のために今年つとめるから、安楽自在ですることなすことみな成就する。
およそ人と生まれ出た以上は、死ぬのは必定だ。 長生きといっても取るに足らぬほどの相違で、たとえばロウソクに大中小とあるようなものだ。 人と生まれ出た以上は必ず死ぬものと覚悟してしまえば、一日生きれば一日の儲け、一年生きれば一生の得だ。
昔蒔く、木の実大木となりにけり、いま蒔く木の実、後の大木ぞ
富をみて直ちに富を得んと欲する者は、盗賊鳥獣に等しい。 人はすべからく勤労して、しかる後に富を得る。
貧者は天分の実力をわきまえず、みだりに富者をうらやみ、その真似をしようとする
桃栗三年、柿八年というように、因果にも応報にも遅速があることを忘れてはならない
速成を欲するのは、人情の常である。 けれども成功、不成功には時期があり、小さい事柄でも、おいそれとは決まらない。 まして大業ならばなおさらのことだ。
昔から方位で禍福を考えたり、月日で吉凶を説いたりすることがあって、世間ではこれを信じているが、この道理はあり得ない。 禍福吉凶というものは、人それぞれの心と行ないとが招くところに来る。
奪うに益なく譲るに益あり
生きているときは人で、死んで仏になると思っているのは間違いだ。 生きて仏であるからこそ、死んで仏なのだろう。 生きてサバの魚が、死んでカツオになる道理はない。 林にあるときはマツで、切ったらスギになるという木はない。 だから生前から仏であって、死んで仏になり、生前から神であって、死んで神なのだ。
悪いことをした、やれまちがったと気づいても、改めなければしかたがない。 世の中のことは、実行によらなければ事は成就しない。
古語に「三年の蓄えなければ国にあらず」といっている。 外敵が来たとき、兵隊だけあっても、武器や軍用金の準備がなければどうしようもない。 国ばかりでなく、家でも同じことで、万事ゆとりがなければ必ずさしつかえができて、家が立ちゆかなくなる。 国家天下ならなおさらのことだ。
樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。 だからこそ後世のために木を植えるのだ。 今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか。
学者は書物を実にくわしく講義するが、活用することを知らないで、いたずらに仁はうんぬん、義はうんぬんといっている。 だから世の中の役に立たない。ただの本読みで、こじき坊主が経を読むのと同じだ。
一万石の米は一粒ずつ積んだもの。 一万町歩の田は一鍬ずつの積んだもの。 万里の道は一歩ずつ積み重ねたもの。 高い築山も、もっこ一杯ずつの土を積んだものなのだだから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。
衰えた村を復興させるには、篤実精励の良民を選んで大いにこれを表彰し、一村の模範とし、それによって放逸無頼の貧民がついに化して篤実精励の良民となるように導くのである。 ひとまず放逸無頼の貧民をさし置いて、離散滅亡するにまかせるのが、わが法の秘訣なのだ。
世人は蓮の花を愛して泥を嫌がり、大根を好んで下肥を嫌がる。 私はこういう人を半人前という。 蓮の花を養うものは泥である。 大根を養うものは下肥である。 蓮の花や大根は、泥や下肥を好むことこの上なしではないか。 世人の好き嫌いは、半面を知って全面を知らない。 これまさに、半人前の見識ではないか。 どうして一人前ということができよう。
朝夕に善を思っていても、その善事を実行しなければ善人とはいえない。 だから悟道治心の修行などに時間を費やすよりは、小さい善事でも行なうのが尊い。善心が起こったならば、すぐ実行するがよい。
経文といい経書といい、その経という文字は、もともと機の縦糸のことだ。 だから縦糸ばかりでは用をなさず、横に日々実行を織りこんで、はじめて織物として役に立つのだ。 横に実行を織りこまず、ただの縦糸だけでは役に立たぬことはいうまでもない。
世の中の人はみんな、聖人は無欲だと思っているが、そうではない。 その実は大欲であって、正大なのだ。 賢人がこれに次ぐもので、君子はそのまた次だ。 凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものだ。
富は人のほしがるものだ。 けれども人のために求めれば福を招き、己のために求めれば禍を招く。 財貨も同じことで、人のために散ずれば福を招き、己のために集めれば禍を招く。
あなたは心得違いをしている。 それは運が悪いのでもなし、神明の加護がないのでもない。 ただ、あなたの願うことと、することが違うからいけないのだ。
因というのは、たとえば、蒔いた種のことだ。 これを耕作培養するのが縁だ。種を蒔いた因と、培養した縁とによって秋の実りを得る、これを果というのだ。
いま、富める者は、必ずといってもよいほど、その前から徳を積んだものである、もし麦を蒔かなかったら、来年は麦がまったく実らない。 麦の実りは冬から力を入れてきたからである。 稲を仕つければ秋には実る。 米の実りは、春から丹精してきたからである。
よく徳に報いる者は、将来の繁栄のことはさておき、今日ただいまの丹精を心掛けるから自然と幸福を受けて、富貴がその身を離れない。
万事はどうなるかという先を見通して、前もって決めておくことが肝心だ。 人は生まれると必ず死ぬべきものである。 死ぬべきものだということを前に思い定めてかかれば、生きているだけ日々もうけものだ。 これが、わが道の悟りである。
わざわいは過去の因縁によって来る場合もある。 名僧が強盗にあったときの歌に「前の世の借りを返すか、いま貸すか、いずれ報いはありとしぞ知れ」と詠んだとおりだろう。 決して迷ってはならない。
国や家が窮乏に陥るのはなぜかといえば、分内の財を散らしてしまうからである。 これを散らさないようにさえすれば、国も家も必ず繁栄を保つことができる。 国や家の衰えを興そうとするには、何よりもまず分度を立てるがよい。 分度が立ちさえすれば、分内の財が散らないから、衰えた国も興すことができ、つぶれかけた家も立て直すことができる。
すでに熟したものを差し置いて、まだ熟しないものを心配している。 これは人情の常である。 しかし、まだ熟しないものを心配するより、すでに熟したものを取り入れる方が、どれほど良いかわからぬ。
貧富は分度を守るか分度を失うかによって生ずる。 分度を守って、みだりに分内の財を散らさなければ富にいたるし、分度を失い、他から借財して分内に入れるようであれば、やがて貧に陥る。
財はよく人を富ますが、またよく人を貧しくするのは、なぜかといえば、天分の度合に小と大とがあるからだ。 小と大とに即応して経理する術を知っている者は、貧窮の憂いがない。
財貨は海のようなものだ。 貧富、苦楽は、水を渡る術を知っているか、いないかにある。泳ぎの上手な者は水を得て楽しむし、泳ぎのへたな者は、水のために苦しんで溺れる。 勤勉な者は財を得て富むし、勤勉にできない者は財のために苦しんで貧乏する。
世の人はみんな金銭の少ないのを嫌って、ひたすら多いことを願うけれど、もしも金銭が銘々の願いどおりに多かったとしたら、砂や石となんの違いもない。
世間一般の人の願望は、もとより遂げられるものではない。 というのは、願っても叶わぬ事を願うからだ。
凡人は小欲なり。聖人は大欲なり。
政事は豆腐の箱の如しである、箱が歪めば豆腐も歪む
積小為大(せきしょういだい)
万町の田を耕すもその技は一鋤(すき)ずつの功による
一人の人間は、宇宙にあっては限りなく小さいが、その誠意は天地をも動かすことができる
心の田畑さえ開墾ができれば、世間の荒地を開くこと難しからず
心の力を尽くして、私心がないものは必ず成功する
世の中には、人がまだ捨ててはいないが、活用していないものが多い。 これらをよく拾い集めて、国家を再興する資本とすれば、多くの人を助け、まだ余りが出る。 これが私が小さい頃から行ってきた道である。
学問は、学んだことを活用してこそ意味がある。 活用しなければ、幾ら沢山の本を読んだとしても、意味はない。
譲りの道を実行する者は、豊かになり評判も高くなる。 これを実行できない者は反対に富を失い、評判を落とすことになる。 少なく譲れば少なく帰り、大きく譲れば大きく帰る。 他の人に対して、歩く道も譲らなければならない。 言葉も手柄さえも譲らなければならない。
下方向や楽な方に比較をしてものを言う者は怠け者である。 まだこんな時間か、まだ仕事や勉強ができると、上方向や困難な方に比較をしてものを言う者は勉強家、働き者である。 一言を聞いても人の勤勉・怠惰は分かるものだ。
村を仁にすることは難しくはない。 まずは自分の家を仁にすることである。 それから善人や正直者を厚く賞すれば必ず村全体が仁となる。
節約によって無駄な費用を省き、余分を生じて、仲間を救い、善行を実践し、悪事をせず、まじめに勤めればどんな貧村も必ず富むことが出来る
鳥獣は譲るということを知らない。 人はそうではなく、今日のものを明日に譲り、子孫に譲り、他人に譲るという道がある。
人は皆長所があり、短所があるのは仕方がない。 だから人の長所を友として、短所を友としてはいけない。 その人の短所を捨てて、その人の長所を友とするのがよい。
私が倹約を尊ぶのは、その後に活用することがあるからである。 住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、資本を作り、国を富ませ、万人を救済するためである。 目的があるのが倹約である。
正しい道というものは、必ずこの世の人々に利益をもたらすものである。 学問をする時も、修行をする時も、このことが実現できなければ、人の世には何の利益ももたらさない無用のものとなる。
肥取り船に水を汲み入れて、肥しを増やしているのが見えた。 このような汚物すら、増やせば利益が上がる世の中である。 万物が不浄を極めれば、必ず正常に帰り、清浄極まれば、不浄に帰る。 それは天の理である。このように世の中に無用のものはないのだ。
どれほど裕福であっても、家憲を節約倹約と定めて、贅沢に流れる事を厳しく禁止すべきである。 なぜならば、贅沢を望む心が、自己の利益を貪る気持ちを増長させ、慈善の気持ちを薄くさせ、欲が深くなり、けちになり、少しずつ仕事にも不正が入り込み災いを呼び込むからである。
私の本願は、人々の心の田の荒廃を開拓していくことである。 天から授けられた善の種である仁義礼智を栽培し、善の種を収穫して、各地に蒔き返して、日本全体にその善の種を蒔き広めることである。
湯船のお湯をかき寄せれば、自分のほうに引き寄せられるが、その後にお湯は向こうに流れていってしまう。 反対にお湯を押し出せば、自分の前から流れて行くが、少し後にはお湯が自分の方に戻ってくる。 少し押せば少し返り、大きく押せば大きく返る。 奪うに益はなく、譲に益がある。
商売をするときは、金を儲けようなどと考えずに、ひたすら商道の本意を勤めなさい。よく商人の本意を守って努力すれば財は求めなくても集まり、豊かになることは計り知れない。
恩には報いていかなければならないという道理をわきまえることができれば、この世の中のこと全てについては、何の迷いも無く進められる。
我が家の繁栄を捨て、身命をなげうって、無数の家を繁栄させることに努める。 これが私の決意である。
世の人が、生きているときは人で、死んでから仏となるというのは間違っている。生きている時から仏であるから死んで仏になるのである。
粗食になれて、しかもそれを不足に思わない時には、為そうとしていることは総てが成就する。
両方が得をして、両方が喜べるような間柄を作ることに、知恵を働かせるのがよい
いかに善を思っても、行いによって善を表さなければ、善人とは言えない。 それは、悪い事を考えていると言っても、実際に悪事をしなければ悪人といえないのと同じである。 従って私はどんな小さなことでも、実際に善を行う事を尊ぶ。 善心が起きたら、すぐに実行するのが良い。
早起きにまさる勤めぞなかるべし、夢でこの世を暮らしゆく身は
尊い人の道も書物に書いた時は、世の中を潤すことはなく、世の中の役に立つこともない。 それは、水が凍ったようなものである。この氷となった書物は、胸中の熱を使って元の水に戻さなければ役に立たない。 書物を理解して実行する力を尊ぶのである。
人道は勤めるのを尊しとし自然に任せるのを尊ばない。 勤めるということは私欲に克つということである。
この仮の身を、わが身とは思わずに、生涯一途に世のため、人のためをのみを想いながら、国のため、天下のために貢献できることだけに励み、一人でも、一家でも、一村でも貧乏から抜け出て裕福になることを想い勤め、怠らないようにしているのである。これが私の覚悟である。
富貴天にありという言葉は、寝ていても勝手に豊かになると考えている人もいる。 これは大きな間違いである。 その意味は、日々励んで、その言動が天理にかなっているときには、富は向こうから近づいてくるということだ。
親の養育を受けたことに報いるために子供を養育し、先生から教えを受けたことに報いるために子弟を教え、人の世話を受けたことに報いるために人の世話をする。 これが人道である。
私が倹約を尊ぶのは、その後に活用することがあるからである。 住居を簡素にし、服や食を粗末にするのは、資本を作り、国を富ませ、万人を救済するためである。 目的があるのが倹約である。
我が家の繁栄を捨て、身命をなげうって、無数の家を繁栄させることに努める。 これが私の決意である。
はい、できます。私が国王代理として今回の件仕切らせてもらいます
私に考える時間をください。必ず見つけますから。商店会の皆さんも私達観光協会も…いえ、間野山の皆が笑顔になれるアイデアを。
ダメだよ!
冗談、ですよね?
とにかく皆で謝りにいきましょう
だんないよ。日程を確認しなかった私達全員がが悪いんだし
熊野さんも同じようなこと言ってたよ?
私…何も見えてなかったんだね。自分のことも家族のこともこの町のことも。 フランスに行った熊野さんの方がよっぽどこの町のことわかってるよね。すごいなあの人。
なんかビックリしちゃった。ズシンと来たっていうか。 10年後のことなんか真剣に考えたことなかったし今の生活が続くんだって思ってたから。
お姉ちゃんちょっといいー?
うん…
私はずっとこのままがいい。今のままで幸せだもん
え、何?
は?
ごめん、それだけは本当に無理なの
地味地味って…私そういうセンスないから出来ないよぉ…
カボチャのおはぎだよ。間野山でとれたお米とカボチャを使ってるの
まずは地元の人に受け入れられなきゃ定着しないと思うんだけど
こういうことじゃないと思うんだ… トロピカル串焼き…フローズンチャーハン…落ち武者饅頭…地元の食材はどこ!?
そっか~。私むしろ二人付き合ってたのかなって
高校時代のお姉ちゃんってどんな感じでした?
間野山は豊な所なんだよ
私川魚だなんて言ってないよ~
知り合いなの?
でもやっぱり相手は公務員がいいな。 休みの日には田んぼも手伝ってくれて。 もうそれだけで十分だよ。
居ないよ~
ここ結構高いんじゃない?
だよね!だってどうやって失敗の責任とるの?こわくて無理だよ~
私が影で誰かを支えるのが向いてるの。表に立って何かするなんて無理無理。
じゃあ飲食店にも話聞きにいかない?
カブラのそぼろあんかけでーす
ていうか皆の料理って間野山と何も関係ないよね…
そんなの無理無理!リーダーなんて絶対無理だよ
私天然じゃないもん
お姉ちゃんってたまにこうなんだよね
そんなことないよー。それだってただのおそうめんだし
ごめんね。私てっきり見学に来るんだと思ってて
だんないよ
篠原さんの部下の鈴屋什造です。 次、くろなぁああああ!!!
政治家の秘訣は何もない。ただ誠心誠意の四文字ばかりだ。
外交の極意は、誠心誠意にある。 ごまかしなどをやると、かえって、こちらの弱点を見抜かれるものだよ。
天下の大勢を達観し、事局の大体を明察して、万事その機先を制するのが政治の本体だ。
敵は多ければ多いほど面白い。
時勢の代わりというものは妙なもので、人物の値打ちが、がらりと違ってくるよ。
大事をなすには寿命が長くなくてはいけないよ。
人間、数ある中には、天の教えを受ける勘を備えている者がある。
学者になる学問は容易なるも、無学になる学問は困難なり。
世人は、首を回すことは知っている。 回して周囲に何があるか、時勢はどうかを見分けることはできる。 だが、もう少し首を上にのばし、前途を見ることを覚えないといけない。
あれのこれのと心配ばかりしていては、自然と気が餓え神が疲れて、とても電光石火に起こりきたる事物の応接はできない。
もし成功しなければ、成功するところまで働き続けて、けっして間断があってはいけない。 世の中の人は、たいてい事業の成功するまでに、はや根気が尽きて疲れてしまうから大事ができないのだ。
生業に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ。
人はみな、さまざまに長ずるところ、信ずるところを行えばよいのさ。 社会は大きいから、あらゆるものを包容して毫も不都合はない。
島国の人間は、どこも同じことで、とにかくその日のことよりほかは目につかなくって、五年十年さきはまるで暗やみ同様だ。 それもひっきょう、度量が狭くって、思慮に余裕がないからのことだよ。
功名をなそうという者には、とても功名はできない。 戦いに勝とうという者には、とても勝ち戦はできない。 何ごとをするにも、無我の境に入らなければいけないよ。
人間の精根には限りがあるから、あまり多く読書や学問に力を用いると、いきおい実務の方にはうとくなるはずだ。
世に処するには、どんな難事に出逢っても臆病ではいけない。 「さあ、なにほどでも来い。おれの身体がねじれるならばねじってみろ」 という料簡で事をさばいてゆくときは、難時が到来すればするほどおもしろ味がついてきて、物事は造作もなく落着してしまうものだ。
やるだけのことはやって、後のことは心の中で、そっと心配しておれば良いではないか。 どうせなるようにしかならないよ。
俺など本来、人が悪いから、ちゃんと世間の相場を踏んでいる。 上がった相場はいつか下がるときがあるし、下がった相場もいつか上がるときがあるものさ。 その間、十年焦らずじっとかがんでいれば、道は必ず開ける。
機先を制するというが、機先に遅れる後の先というものがある。 相撲取りを見てもただちにわかる。
急いでも仕方がない。寝ころんで待つのが第一だと思っています。
生死を度外視する決心が固まれば、目前の勢いをとらえることができる。 難局に必要なことはこの決心だけだ。
自分の価値は自分で決めることさ。 つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。
世の中に無神経ほど強いものはない。
人の一生には炎の時と灰の時があり、灰の時は何をやっても上手くいかない。 そんなときには何もやらぬのが一番いい。 ところが小心者に限って何かをやらかして失敗する。
その人がどれだけの人かは、人生に日が当たってない時にどのように過ごしているかで図れる。 日が当たっている時は、何をやってもうまくいく。
人には余裕というものが無くては、とても大事はできないよ。
事を成し遂げる者は愚直でなければならぬ。 才走ってはうまくいかない。
行いは己のもの。批判は他人のもの。知ったことではない。
外国へ行く者が、よく事情を知らぬから知らぬからと言うが、知って行こうというのが良くない。 何も用意しないでふいと行って、不用意に見て来なければならぬ。
何でも大胆にかからねばならぬ。 難しかろうが易しかろうがそんな事は考えずに、いわゆる無我の境に入って断行するに限る。
ミスった
またまた適当です。 さっきのやつの若いver
演技の練習 なんかどうしても棒読み気味ですが
もう駄目だわ~!
魔術を封じる?そんなの無敵じゃ…
駄目!先生逃げて!
助けなさいよ!
あの…やめて…ください…お願い…
ふざけないで!私があなたに屈するとでも!
私は誇り高きフィーベル家の娘よ!
駄目よルミア…
私の質問に答えなさい!
あなた達…ルミアって子をどうする気なの…
な!何言ってんの!そんなわけ…
何よ
あいつ最近ほんと人気よね
それはないわ!
魔術講師としてはすごい奴だけど人間としては最低だわ
だからあんたにだけは聞きたくなかったのよ!
馬鹿はあんたよ!この馬鹿馬鹿馬鹿~!
し…白猫?私にはシスティーナって名前が…
